われわれが終末を待つということも非常に焦って終末を先取りするとか、終末に対する不安を何らかの人工的な方法で消そうとするのではなくて、終末を静かな気持ちで待つという、その待つことにおいて、われわれの神さまに対する、或いは人に対する愛がそこで純化され、浄化されてゆくのではないでしょうか。そういうことを終末は私たちに教えているのではないでしょうか。
信仰について考えて見ますと、われわれは、この時には必ずこうなるとかああなるとかいうことが分かっているとしたら、そんなに信仰する必要もありません。ところが、じっさいにはいつくるのか分からない。しかし、週末のときにどんな恐ろしいことが起こるか知らないけれど、もし私たちがイエス・キリストを信じているならば、キリストは必ず私たちを助けてくださる。いつ来るかわからない終末を待つという、そのことの中でわたしたちの信仰は浄化されてゆくのであります。
希望についても同じことがいえます。パウロもいっておられますように、約束されているものを何月何日に受け取ることが確実であるならば、希望は必要ありません。そうではなくて、見えないものを希望する。そういう仕方で私たちの希望は浄められてゆくのではないでしょうか。
ですから、現実の世界の状態の中で、或いは終末的現象というものが至る所においてもっとひどくなっていって、そしていろいろな意味での苦しみや争いがもっと強くなるかもしれませんが、しかし私たちはその中で終末をあわてて先取りしない。そして待つということ。勿論その待つというのは、ただ拱手傍観して何もしないことではなくて、基本的態度として先取りしないこと。そして与えられた仕事を静かに忠実に果たしてゆくこと。そういう在り方の中で、信仰と希望と愛は深められてゆく。
その中で一つのヴィジオが造られてゆく。
アウグスティヌスの晩年、『神の国』が書かれたとき・・・。
『神の国』の中に見られるアウグスティヌスの思想はどういうものであるかといいますと、彼は決してペンテコステ的な仕方で熱狂していません。しかしまた、その状況から無関心になって、自分ひとりの世界に閉じこもっているのでもありません。むしろ彼は、そういう終末的状況の中で、いわば時代を超越しています。しかしそういう現実から遊離して超越するのではなく、その現実の中で神の国を待ちながら、その待望の中で超越しているのです。そしてその超越において、何か人類の歴史と運命といったようなものが、一つのヴィジオとなって見渡されてきます。『神の国』に述べられているのはそのようなヴィジオです。
われわれ自身の問題に帰りましょう。われわれが置かれている現代の状況は、いろいろな意味で不安にみちています。終末的現象が現れています。拱手傍観しているわけにはいきません。なしうるかぎりのことは、勿論しなければなりません。しかし、終末を先取りすることなしに、終末を「待つ」ということを、苦しい状況の中で、いわば訓練してゆかねばならないと思います。それをしながら、自分たちの視野を広めてゆく。その視野の中で、それまで見えなかった過去と現在と未来の世界、その中でわれわれと同じように苦しんでいる、多くの兄弟たちの姿が見えてくる。待っているのは、私一人ではなく、多くの兄弟たちがみな一緒に待っている。そういうことが分かってくる。
そのように考えますと、現代におけるさまざまな終末的状況は、われわれにそのような視野を開くために神さまが与えて下さった課題であると思われてきます。イエス・キリストがいわれた、「汝ら目ざめて祈れ」ということばが、身に沁みて感じられるのであります。
第五話 終末と希望 p173-180 山田晶「アウグスティヌス講話」