2008/06/02

抜書き 世界に悪は何故存するか

われわれは普通、『創世記』を読みますと「神は天地を創り給うた」ということばから、創造ということを、何か過去においてすでに行われてしまった出来事のように考えがちです。しかしながら、聖書の別の箇所によりますと、「父なる神は今に至るまで働いておられる」(ヨハネ五・一七)。神の創造は現在に至るまでたえず働き、世界が存在するかぎり続きます。それなのに、創造ということを単に過去的な出来事として捉えるところから、何故神さまは世界を善きものとして創り給うたのに、悪が生じてきたかというような問題が、いわば過去の歴史の問題として起こってきたのであると思われます。
ところが世界というものを、旧約と新約とを通観して考えますと、イエス・キリストは、単に人間にとって救い主であるという意味を有するだけではなく、御言による新しい創造の始まりという意味を持ちます。ですからイエス・キリストを通して世界の創造は続いている、現在も世界は創造されつつあると考えなければなりません。
それとともに、われわれが回心によってイエス・キリストにおいて、自分に死んで、それとともに、キリストの新しい命に与るということは、単にわれわれが信仰によって救われたというだけのことではなくて、われわれの一人一人が、信仰において、御言の新しい創造に関与しているという意味を持つことになるでしょう。すなわち、キリストを信ずることによって、われわれの一人一人が同じキリストの体となり、キリストの体として働くことによって、キリストの世界創造を助けている、或いは、われわれの一人一人が、キリストの世界創造の一部をになっていることになるでしょう。
このように考えることによって、世界に存在する悪についての味方も、変わってくると思います。
アウグスティヌスは、晩年の四二一年、六七歳の時に、「エンキリディオン」という書物をまとめています。その中で彼は、こういうことをいっています。「神把握をも善用なさるほどに、全能であり善なる方である」というのです。これを、若い頃に書かれた『自由意志論』の最初に出てくる問題と対比してみると、非常に面白いと思います。そこで、若きアウグスティヌスが抱いた疑問は、「神が全能であり善であるということは、世界に悪が存在することと矛盾するのではないか」ということでした。ところが、一生を通じて、アウグスティヌスが最後に到達した結論は、悪が世界に存在することを認めているのです。しかし、悪の存在は、神の全能と善性に矛盾しない。むしろ、その悪をも利用する、それがおできになるほどに神は善であり全能であるというのです。ですから、全能なのに何故悪があるか、という問いに対しては、悪をも善用するほどに全能であると答えられます。すなわち、全能ということが神の創造の働きの次元において捉えられているのです。
第四話 創造と悪 p145 山田晶「アウグスティヌス講話」