2008/06/30

ヘルシーパン 

新会堂建築のためにヘルシーパン

強力粉 425g
きな粉  75g
イースト  5g
砂糖   55g
塩     6g
サラダオイル70g バター30g

卵 2個と水 あわせて300cc

24分割 成型時1個当たり39g

4個いり150円で12袋(2単位) 
月1回目標で継続すること

2008/06/23

2008/06/21

種の起源

輪読 「種の起源」をめぐって

webで見つけた簡単な解説

長谷川 ダーウィンの時代には、実験科学はなかったですからね。サイエンティストという言葉もまだ定着してい なかった時代で、おそらくダーウィンは最後の自然哲学の巨人と言っていいですよね。哲学的な考察と実験科学みたいなものが分岐していない時代に生まれて、 だからこそ全体をいろいろと見渡すこともできた。もちろん環境や時代背景がよかったとも言えます。家がお金持ちだったし、ナポレオン戦争の後、学者たちが 世界中に探検旅行に行きやすい状況でもあった。ただ、やはり進化生物学の基本的な理論を思いついたのは、彼固有の才能によるものだったと思います。ある学 問的なメカニズムの定義をするために、観察事実を列挙して、それを基に演繹的に実証していった。その閃き、発想は優れて学問的だった。

にんじんの花


開花してきました。

つるなしインゲンは初なり150g収穫。

2008/06/09

ささゆりの花


昨日の日曜日、聖日礼拝は花の日の音楽礼拝でした。
午後、信徒会の方たちと海上の森までピクニック。車に分乗して出かけ、海上の森センターから一番初心者向けコースを歩きました。一時間ほど。途中、ささゆりの花が咲いていました。携帯電話の画像です。
実際はもう少し桃色がかって可憐。どなたがしてくださったのか細い木の枝を、またぎになったところを用いて支えがしてありました。4輪咲いているのを見つけました。

2008/06/04

 抜書き 終末と希望

「待つ」ことはいったい、われわれにどういうことをもたらすでしょうか。一つは、待つことの中で、われわれの愛が浄められてゆくのではないでしょうか。

われわれが終末を待つということも非常に焦って終末を先取りするとか、終末に対する不安を何らかの人工的な方法で消そうとするのではなくて、終末を静かな気持ちで待つという、その待つことにおいて、われわれの神さまに対する、或いは人に対する愛がそこで純化され、浄化されてゆくのではないでしょうか。そういうことを終末は私たちに教えているのではないでしょうか。

信仰について考えて見ますと、われわれは、この時には必ずこうなるとかああなるとかいうことが分かっているとしたら、そんなに信仰する必要もありません。ところが、じっさいにはいつくるのか分からない。しかし、週末のときにどんな恐ろしいことが起こるか知らないけれど、もし私たちがイエス・キリストを信じているならば、キリストは必ず私たちを助けてくださる。いつ来るかわからない終末を待つという、そのことの中でわたしたちの信仰は浄化されてゆくのであります。

希望についても同じことがいえます。パウロもいっておられますように、約束されているものを何月何日に受け取ることが確実であるならば、希望は必要ありません。そうではなくて、見えないものを希望する。そういう仕方で私たちの希望は浄められてゆくのではないでしょうか。

ですから、現実の世界の状態の中で、或いは終末的現象というものが至る所においてもっとひどくなっていって、そしていろいろな意味での苦しみや争いがもっと強くなるかもしれませんが、しかし私たちはその中で終末をあわてて先取りしない。そして待つということ。勿論その待つというのは、ただ拱手傍観して何もしないことではなくて、基本的態度として先取りしないこと。そして与えられた仕事を静かに忠実に果たしてゆくこと。そういう在り方の中で、信仰と希望と愛は深められてゆく。

その中で一つのヴィジオが造られてゆく。

アウグスティヌスの晩年、『神の国』が書かれたとき・・・。

『神の国』の中に見られるアウグスティヌスの思想はどういうものであるかといいますと、彼は決してペンテコステ的な仕方で熱狂していません。しかしまた、その状況から無関心になって、自分ひとりの世界に閉じこもっているのでもありません。むしろ彼は、そういう終末的状況の中で、いわば時代を超越しています。しかしそういう現実から遊離して超越するのではなく、その現実の中で神の国を待ちながら、その待望の中で超越しているのです。そしてその超越において、何か人類の歴史と運命といったようなものが、一つのヴィジオとなって見渡されてきます。『神の国』に述べられているのはそのようなヴィジオです。

われわれ自身の問題に帰りましょう。われわれが置かれている現代の状況は、いろいろな意味で不安にみちています。終末的現象が現れています。拱手傍観しているわけにはいきません。なしうるかぎりのことは、勿論しなければなりません。しかし、終末を先取りすることなしに、終末を「待つ」ということを、苦しい状況の中で、いわば訓練してゆかねばならないと思います。それをしながら、自分たちの視野を広めてゆく。その視野の中で、それまで見えなかった過去と現在と未来の世界、その中でわれわれと同じように苦しんでいる、多くの兄弟たちの姿が見えてくる。待っているのは、私一人ではなく、多くの兄弟たちがみな一緒に待っている。そういうことが分かってくる。

そのように考えますと、現代におけるさまざまな終末的状況は、われわれにそのような視野を開くために神さまが与えて下さった課題であると思われてきます。イエス・キリストがいわれた、「汝ら目ざめて祈れ」ということばが、身に沁みて感じられるのであります。

第五話 終末と希望 p173-180 山田晶「アウグスティヌス講話」

2008/06/03

これは何の花


お正月に使い残したにんじんが冷蔵庫で芽を出しました。3月庭に植えておいたら、5月も末になってこんなに立派な集合花が6つくらいつきました。
たくさんの花に実がなってこぼれおち、秋にはかわいい芽がいっぱいでてくるでしょうか。

2008/06/02

つるなしいんげんに実がついた


5月27日、箕面の庭の畑、つるなしインゲンに小さな実がつきました。
収穫はいつになるか、期待も膨らんでいきます。

抜書き 世界に悪は何故存するか

われわれは普通、『創世記』を読みますと「神は天地を創り給うた」ということばから、創造ということを、何か過去においてすでに行われてしまった出来事のように考えがちです。しかしながら、聖書の別の箇所によりますと、「父なる神は今に至るまで働いておられる」(ヨハネ五・一七)。神の創造は現在に至るまでたえず働き、世界が存在するかぎり続きます。それなのに、創造ということを単に過去的な出来事として捉えるところから、何故神さまは世界を善きものとして創り給うたのに、悪が生じてきたかというような問題が、いわば過去の歴史の問題として起こってきたのであると思われます。
ところが世界というものを、旧約と新約とを通観して考えますと、イエス・キリストは、単に人間にとって救い主であるという意味を有するだけではなく、御言による新しい創造の始まりという意味を持ちます。ですからイエス・キリストを通して世界の創造は続いている、現在も世界は創造されつつあると考えなければなりません。
それとともに、われわれが回心によってイエス・キリストにおいて、自分に死んで、それとともに、キリストの新しい命に与るということは、単にわれわれが信仰によって救われたというだけのことではなくて、われわれの一人一人が、信仰において、御言の新しい創造に関与しているという意味を持つことになるでしょう。すなわち、キリストを信ずることによって、われわれの一人一人が同じキリストの体となり、キリストの体として働くことによって、キリストの世界創造を助けている、或いは、われわれの一人一人が、キリストの世界創造の一部をになっていることになるでしょう。
このように考えることによって、世界に存在する悪についての味方も、変わってくると思います。
アウグスティヌスは、晩年の四二一年、六七歳の時に、「エンキリディオン」という書物をまとめています。その中で彼は、こういうことをいっています。「神把握をも善用なさるほどに、全能であり善なる方である」というのです。これを、若い頃に書かれた『自由意志論』の最初に出てくる問題と対比してみると、非常に面白いと思います。そこで、若きアウグスティヌスが抱いた疑問は、「神が全能であり善であるということは、世界に悪が存在することと矛盾するのではないか」ということでした。ところが、一生を通じて、アウグスティヌスが最後に到達した結論は、悪が世界に存在することを認めているのです。しかし、悪の存在は、神の全能と善性に矛盾しない。むしろ、その悪をも利用する、それがおできになるほどに神は善であり全能であるというのです。ですから、全能なのに何故悪があるか、という問いに対しては、悪をも善用するほどに全能であると答えられます。すなわち、全能ということが神の創造の働きの次元において捉えられているのです。
第四話 創造と悪 p145 山田晶「アウグスティヌス講話」