読書箇所は、真理のかがやきの中の「主の祈りについて」
教会で日曜日の礼拝を守ることから1週間の歩みを始める生活を40年以上続けてきました。イエスさまが、こう祈るのだよと教えてくださった主の祈りをどれほど祈ってきたでしょうか。日曜日だけでなく、ふだんの生活の中でも、知らずしらず「天にいますわれらの父よ」とまるで呪文のように言葉にすることもあります。「わたしたちの罪を赦してください」ぐらいになると、冷静になります。私にとって心を落ち着けるための切り札です。昔、教会学校で奉仕をしていたとき、こどもたちにもよく奨めました。けんかする前に、試験に臨むときにもちょっと唱えてご覧、気持ちが落ち着くからと。
羽仁先生の著作集の最後の巻のおしまいに「主の祈りについて」があります。自由学園の生徒たちに6日間連続で、主の祈りについて語られた説教記録です。高齢の羽仁先生が、子どもたちに向けて話しておられる情景が思い浮かびます。
第1日目「聖書は生きた書物で、多くの出来事と暗示、殊にキリストのご生涯を通して、神の人類に対する永遠の約束を啓示しています。」と冒頭にあります。私たちの創り主なる神さまがいて、神さまは私たちを父としての愛をもって導いてくださるという事実を信じて生きるさいわいを子どもたちの心に沁みいるように話されています。
第2日目 みくにの来たらんことを、「神の国の面影にふれると」という言葉があり、はっとさせられました。友の会でみくにを望んでよいことは必ずできると励むとき、二人三人で祈る時、そこに神の国の面影を私たちは見ていると思います。
第4日目 我らの日用の糧を今日も与えたまえ、教会学校の生徒が日曜日のプレゼントのお祈りと勘違いしていたという笑い話がありますが、日毎の糧は生活そのものです。友の会で適量を大切にするのは、神さまからいただくすべてをむさぼることなく大切にする心につながっていると思います。
第6日目のところで、神さまのいらっしゃるところは平和の国だから、神さまの国と力と栄えから離れないで、与えられた課題を自信をもって心を尽くしてやり通しなさいと言われています。人に褒められるのでなく神さまに褒めていただけるように励んでいたら、だんだん恐れの気持ちが取り去られて互いに認め合う自立した人たちのむれができますと。
定型句にして祈ってしまいがちですが、本当にその意味を味わいつつ祈りたいと願います。信仰はわからないからと、神さまの話は避けたい感情があるように思います。神さまが世のために下されたというイエスさまのこと、キリスト教の核心にある十字架の意味、復活について荒唐無稽な話としてしまう人たちも多いようです。私は単純に、もしこの世界に神さまがいなかったら、苦しみや悲しみを人間の力だけで解決できないことがらにどう決着をつけて生きていけるのかと思います。自分の中にある罪にも気づかず過ごしていることでしょう。婦人之友4月号の「今月のいのり」に自由学園の大貫隆先生が「働き続ける神」と題して、私たちの今を含めて太古の創造に始まった父なる神の働きがなお継続して、神自身が最終的な自己実現に向かってなお途上にあると言われています。
再びイエスさまが来られる世の完成の至る時まで、神の国を求めつつ、神が共にいてくださることを信じ祈って、歩ませていただきたいと願います。
Thinking Living Praying