2015/07/21

母が逝って

母が逝って20日あまりになりました。名古屋から箕面に帰って落ち着いてからは毎週火曜日には母のところへ行くことにしていました。7月4日に葬儀を終えた後、7日の火曜日に介護施設アミーユに弟妹集まって、母が7年暮らした部屋の整理をした後は、石切の方へ行くことも少なくなりました。

母の愛用の花ばさみは私がもらいました。
花が好きだった母、ほば毎週庭の花を持って行きました。脳梗塞で倒れたのが6月4日、その前2日に訪問した時の会話が最後になりました。

たくさんつぼみがついたバラ(ピンクのオールドローズとバフビューティ)を持参したら
 「ええ色の花やな、こんな花を咲かせるようになったか、肥しもたくさんつこうてるやろな。
 そやけどつぼみが多すぎる、もうちょっと切ってやらな」
 「そのつぼみは明日咲くから、切らんといて」と私。
でもハサミを持った母の手には、もう切ったつぼみが見えていて・・・
花の季節には毎週のように繰り返された会話。母は、スッキリと形を整えた未生流の流儀花が好みで、近くを散歩出来たころは、摘んできた土筆やヒメジオンみたいな草でも上手にいけていました。


 倒れて1か月、しゃべることも食べることもできないままに7月初め深夜に逝ってしまいました。
棺には、母が忘れてくれるなと何度も念を押していた、父の「恩賜の義眼」を入れました。4日の葬儀には甥や姪、国内にいる孫、ひ孫が皆集まって、安威の大念寺さんの読経で、母が望んでいたような葬儀になったと思います。東大阪の小さな火葬場で焼かれてお骨になった母の傍にガラスの溶けたあとと、両足膝あたりに人工関節の金物が焼けずに残っていたのが目に焼き付いています。

 18日に、京都・東大谷へお墓参りに行きました。主人の父母を偲んで墓前に立った後、知恩院へ回りました。浄土宗の本山、母が度々写経に訪れていたところでした。

知恩院山門で
父の永代供養などで度々参堂した御影堂は平成の大修理の囲いの中でした。

法然上人の墓所、ここまでは観光客も少なく静かでした。

帰り道、四条大橋から。17日の大雨で賀茂川は濁流で川幅を広げていました。

 暑い夏が始まりました。私にとっては、人生の最後の新しい段階に突入した感じです。