NHKラジオの聞き逃しでカルチャーラジオ歴史再発見「胃袋の近現代史」を聞いた。
1-13話のうち聞いたのは後半だけ。
そこでこの本を知った。
湯澤規子著 「焼き芋とドーナツ 日米シスターフッド交流秘史」2023年角川書店
箕面市立図書館で検索したらすぐ借り出しできた。河合隼雄賞受賞とある。いくつものエピソードを重ねて「日常茶飯の歴史」をたどる手法。
印象深かったエピソード
19世紀、産業革命が進み、農村の若い娘がまず紡績工場の労働者となった。
日本では「女工哀史」が良く知られている。
しかし、この本では著者・細井和喜蔵の内縁の妻であった
高井としをの「ある女の歴史―私の『女工哀史』」を取り上げ、
自分で金を稼ぐことができるようになった女たちを取り上げる。
また富山県魚津で起こった米騒動について、
「大げさに伝えられてきたけど、魚津の米騒動は話し合いで済んだがやちゃ」と、
大阪へ飛び火して大杉栄らがアジって大きくなった顛末も語られている。
1918年(大正7年)8月11日
天王子公園公会堂で国民党大阪倶楽部主催「米価調節市民大会」があり、
3000人の集会後、聴衆の一部が米屋を襲った。
この様子を見た大杉らが新聞社に伝え騒ぎをさらに大きく、広げた。
「魚津のおかかたちの日常茶飯の嘆願が
大阪をはじめ都市で勃発した米騒動に拡大され、
政治の言葉、運動の言葉、男の言葉で、
その後の歴史観、米騒動の評価を定着させていった。」と。
また、日本基督教団大阪教会90年史 大正6年の記述に
「8月、天王寺公園音楽堂で、市内各派連合の連続的基督教演説会があったが
同月11日はわが教会の担当で、伝道師、伝道委員その他が出張して演説した」とあり、
今は動物園となった区画の天王寺公園の当時の様子が偲ばれる。
一方、アメリカ
ピューリタンの娘たちが長時間の工場労働の後過ごす寄宿舎で修養を深め
自分たちのミニコミ誌を作っていた、
若草物語作者のオールコットはじめ多くの女性の文芸家の作品、
パッチワークキルトから見た西部開拓時代の女性史
家政学を創始したエレン・スワロウ・リチャーズについて
1876年、マサチューセッツ工科大学内に世界で初めて女性のための研究室を設ける。
科学の成果を家事負担の軽減につなげ、女性の健康を守り
創造的で知的な天分を発揮する機会を与えるため、
科学分野の大学進学者がふえ、そのころに
津田梅子は生物学をまなぶため再度の留学をしていたこと・・・
ニューイングランドキッチン ー 台所から社会を変える
パブリック・キッチン パン屋もの から 栄養と調理の啓蒙
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このあたりの記述を読んでいると、私は
友の会創始者羽仁もと子の思想との関連を強く感じる。
羽仁もと子は1891年、明治女学校で学んだ、そこで
若松賤子らを通じてアメリカの思潮を伝聞していただろう。
津田梅子のようにアメリカで学んだのではないけれど
強い影響を受けたに違いない。
女性の地位への関心、自立
キリスト教の信仰
雑誌による啓蒙
生活勉強のすすめ・・・
日米シスターフッド交流秘話は、この書が取り上げた以上にあるのではなかろうか。
有名無名を問わず、近代社会への転換期と産業革命期を生きた女性たちのライフヒストリーを記述してきた。私にとって思いがけなかったのは、彼女たちの人生は個々に存在していながらも、不思議なつながりを持って互いに影響を及ぼしあい、時代をつないできた歴史を発見したことである。・・・「わたし」を生きようとする意志は、産業革命期の日本やアメリカで、そして日本とアメリカをつないでバトンのように手渡されていたのである。
エピローグー「わたしたちを生きる」P327 から引用