11月、教会のスモールグループ「江戸堀MARY]の仲間と大阪中之島美術館で開催していた「小出楢重-新しき油絵展」を鑑賞しました。
出品されていた「長祥君の肖像」についてのメモ
①産経新聞記事2025/11/7 から一部引用
画家・小出楢重の回顧展 油絵で追求し続けた日本女性の美 大阪中之島美術館で開催
本展のもう一つの見どころは、展覧会開幕直前に発見された「長祥君の肖像」の油彩画だ。楢重の中学時代の同窓生である吉田長祥氏を描いた作品で、その裏には「年三十に達し将に天下を掌握せん 作者は親友 小出楢重氏」と記されている。当時、文展に連続して落選し、落ち込んでいた楢重を勇気づけようとする友情を感じる。作品は吉田氏の娘婿である作詞家の阪田寛夫氏の子孫に受け継がれていた。絵の左隅には裂けた跡がある。昭和20年の大阪大空襲の焼夷(しょうい)弾の破片が貫いた跡だという。
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| 長祥君の肖像 小出楢重 1918 |
②大阪教会出版物「松本雅太郎文書」から
・1917年6月5日発表された会堂建築委員30名のうちに阪田素夫らと共に 吉田厚 の名があり
・1922年(大正11年)新会堂の献堂の報告書中、 建築事業関係者のうち常務委員に吉田長祥の名があり、ヴォーリズ建築の現会堂の建築に大きく関わっていたことがわかります。
・1923年(大正12年)日本組合基督教会第39回総会の項 社会事業委員会 吉田長祥氏寄付申し出の養老事業寄付金並びに寄宿舎受納の件につき協議した。
・1926年 南大阪教会設立、大阪教会から54名が転籍し参加した。この時、阪田素夫と共に吉田長祥も南大阪教会に移った。
熱心なクリスチャンであった吉田氏ですが
③阪田寛夫の小説「花陵」によれば
8p 私の妻はこのあね(*兄嫁)の実の妹であって、彼女たちの父は、-十年前に死んでいるから直接聞くわけにいかないが、遺品の聖書や讃美歌を見ると、例えば「主イエス」という慣用句の「主」の字をすべて丹念に消してしまっている。この人は米英との戦争が始まるころまで教会に通っていた。以後は皇道主義の新興宗団に移ったが、聖書は時々ひもといていたらしい
100p 義父は幼児の頃から宮川経輝牧師の教会に通い、大正時代の終わりに独力でキリスト教の日曜学校を始めた人だ、のち、私の父と同じ南大阪教会で日曜学校長をしていたが、戦争中に牧師と意見が合わず教会をやめた。そして神道儒教仏教とキリスト教を習合したような新興宗教の職業的な講師になった。
とあります。同じ阪田寛夫の「背教」という小説のモデルであるとあり、戦時中に教会から離れられた人物であることがわかりました。(現在、これらの小説は絶版になっています)
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| 松本雅太郎文書・大阪教会所蔵資料目録・阪田寛夫「花陵」 |
ネットで見た古い興信録によると、吉田長祥は1888年生、硫黃及ビートパルプ問屋、富士絹及ワイシヤツ製造業、「大正七年 家督相續と共に襲名して前名 厚を改む 硫黃商を營み 商學士たり」とあり、天王寺にお住まいだったの実業家だったようです。
時代の中で、真剣に生きた一人の方が浮かび上がってきました。
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| 中之島風景 小出楢重 1925 |
毎週日曜日、大阪教会の聖堂で礼拝を守る時、多くの先人たちが祈った場であることを思い、戦争中の信仰者の苦悩を、忘れることはできません。























