聖書には、「新しい」という言葉がよく用いられますが、ギリシャ語では日本語で新しいと訳されている言葉に3つの言葉が使い分けられているそうです。
新しいぶどう酒の新しいはネオス、新しい革袋の新しいはカイノスです。
ネオスは歴史的な新しさ、一時的な新しさ
カイノスは終末的な新しさ、永遠性をもつ言葉だそうです。
もう一つアナカイノーというギリシャ語があって、これは「日々、新たにされる」改革、継続をあらわす動詞だそうです。
先日、大阪教会の婦人会の学びで本庄侑子牧師からお聞きして、書き留めておきたいと思ったフレーズ。
「教会も私たちも、カイノスの新しさを待ち望みながら、日々、ネオスの新しさを加えられ、アナカイノー(新たに)されていく存在」
「『新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるべきである。』
日毎に主が注ぎ入れてくださる新しいぶどう酒(若いエネルギー、歴史的に新しい力)を、新しい革袋(終わりの日の新しさ、喜びの祝宴)で受け止め、しなやかに、のびやかに、新しくされ続ける(アナカイノー)場所、それが、教会であり、婦人会。」
これに関連して名古屋の中京教会の月報「めぐみのつゆ」に松永希久夫先生が書いてくださったコラム『聖書一句一言』を思い出しました。
「新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れるものだ」。
マルコによる福音書 二章一八―二二節
「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。
「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない」。
伝統的な宗教道徳に煮詰まった人々からは、新しい出現に対して疑いが持たれる。婚宴の終末論的イメージをもってイエスは答える。そして花婿の死への警告がつく。また、イエスの働きは旧約の更新であると同時に、それを上回る新しい創造を含んでおり、古い皮袋ではなく、新しい布裂れ、新しい皮袋を必要とする。 私どもは、その新しい「布裂れ」であり、新しい「皮袋」として選ばれている。
(「復活に達する」松永希久夫記念誌-日本基督教団中京教会2006年発行から)